2022年6月13日の生活

▼自分がまだ幼い頃に発生し、未解決のままになっている凄惨な事件の情報提供を呼びかける立て看板を横目に、免許証の更新で警察署へ赴いた。20分ほど歩いたのですっかり汗をかいてしまっていた僕は、署の自動販売機で購入した緑茶を飲みつつ、先行していた人々の後ろに連なった。昔から「流れ作業の人の列」というものが少し苦手で、こういうの、いつもちょっとだけ慌ててしまう。必要書類に記入し、難所の視力検査を危なっかしくクリアして写真撮影へ。珍妙な写りになるか否かを気にするよりも、スムーズに撮影が終了してくれ…というのがポンコツおじさんのただ一つの願いなのであった。講習を受けている最中は、配られたリーフレットの「臓器提供意思表示」についての内容を熱心に読んでいた。この辺りは最近の健康志向(というかガタが来ていてかなしい、という話でしかないのだが)と地続きなのであると思う。ドライブレコーダーの映像を見せられて、自分の認知能力ではどれも避けられそうにないな…と思った。たまに、まだ眠りたくない夜などにぼーっと動画サイトでレコーダーの事故映像を流し見ることがある。そのたびに今日と同じような思いを抱いては自分を戒めている。僕は都会に出てきてからただの一度も自動車を運転していないし、近々でする予定もないのであるが。気ばかりいつも引き締めている。(そして眠る)
 
▼夜にその意思表示の件を思い出し、記入に際してはそういえば家族と相談するように書いてあったなと思い、自分の現時点での希望を恋人に伝えた。彼女はあまり僕の臓器の行く末には興味が無いようだった。逆を考えたとき、自分は果たしてどうだろうか。何にしても、人生のステージが上がろうと上がるまいと、加齢とともに見える景色は変わっていく。彼女の反応一つとっても、それはどうやら確からしかった。いずれにしても、自意識は自分の見えている世界にしか存在しえないこと、そのことには1日でも長く自覚的でありたい。レポートのためにギリシア哲学の足跡を追っていると、ときどき実存主義者として、自身の主観性を思い切り殴られているような気分になることがある。それも悪くない話だな、と思ってはいるのだった。