解像度を下げればあるいは休めるのでは

ちょうど数日前に同居人と休みの質について話していたところだった。「大人しく家に引きこもって体を休めたとしても、何やら疲れは取れていないらしい」だの「疲労が溜まっても休みにしかできないことをした方が、休んだ感が出る」などという凡庸も凡庸な休みの心身二元論を互いにうんうん言いながら結局その話は雲散霧消したわけだが。
 

特集が「休むヒント。」とのことで。一般的な会社勤めの人々とはやはり違うところがあるから、これはこれとして読み物だなと読んだものの、とはいえ社用携帯などを持たされるなどして24時間繋がりっぱなしでため息をついている同居人を見るに、オンオフの切り替えが無いという意味では彼らの話もそう遠く離れたものでもないのかもしれない。僕はといえばそんなものはまっぴらゴメンだぜ村の住人なので、強い意志でオンオフを切り替え続け「そういう人」のポジションをゲットしたので、わりと「休めている」人間だと自己評価している。だが日々癒えることのないこの疲労感はなんだろう。
 
昔から「やらなければいけないことなんて、突き詰めたら本当はないのではないか」とどこかで思ってはいるのだが、生活者としての自分の前には、日々あれこれと「やらなければならないこと」が押し寄せてくる。実際に眼前に現れて処理を要求してくるものもあれば、カレンダーやリマインダー、ToDoリストなどに息を潜めて(の割には大きな態度で)いるものもあり、考えただけで気が滅入りそうになることもしょっちゅうだ。今の自分にとってはオンオフの切り替え以上に、この「(どうやら)やらなければならない(とされている)ものごと」たちからいかにして距離を取るか、これが休みの実感を得るために重要なファクターのようである。

即物的なものに時間を溶かせば短期的には快楽を得られるが、それはあくまで何かを見なかったことにしているだけで、結果的には逃避として失敗しているという感覚があり、少し前からそういうことはあまりしなくなっている。なるべく息の長い、熱中できるものにフォーカスする。リストのあいつらも視界には確かに入っているけれど、ピントをずらして後景化する。そうしたやり方で休みの感覚を取り戻していく。
 
中年なので中年の危機の話ばかりになるが、ある日突然思い立ったように新しい趣味に没頭し出すのも、孤独やら社会的役割云々やらの文脈から語ることもできるが、その実「(どうやら)やらなければならない(とされている)ものごと」を「"この私"が"私の生"のためにやらなければならないこと」で上塗りすることによって、人生を失わないようにする、そんな抗いの痕跡なのかもしれない。自分は今のところ、何かを学ぶことで動揺を鎮め、そのことでToDoの後景化を実現せんとしているが、それだけでは防戦一方だ…!という感覚が芽生えたときに、そばを打ったり筋トレしたりという攻勢に出るのかもしれない。攻めの休み、守りの休み。いずれにしても、僕らにはもっともっと休みが必要だ。