2020年11月26日の断片

▼抜き差しならない日常を「異化」するために書いてきた、ということはやはり否定できないのだろうか。別に否定したいわけではないけれど、自分の言葉に対して申し訳ないような気持ちにもなる。あれだって、一応は表現の端くれであったはずなのだから。なんて感傷的な何かを持ち出したくなるのは、ようやく何事かを書こうと思い至った僕の傍らには確かにあの頃の残り香があるからなのだった。生活の色濃さが増している。もうほとんど人生の居場所がないみたいだ。
 
 
▼人が神の似姿であれその本質を分有する存在であれ、人は神ではない以上、その2者を分け隔てるために神は僕らにはたどり着けない場所に鎮座することにした。最近は時間はないとかいう話もあるらしいけれど、それでも確かに僕らが人生を経過していることは確からしいので、時を超越した「瞬間」へととどまり続けることができるならそれは―みたいなことをまた引っ張り出せるくらいにはなにかにうんざりしている。遅くに部屋に帰って、待っていた恋人を寝かしつけてから軽い食事をして入浴を済ませ、歯磨きをしようと洗面台の引き戸を開けたら手紙が入っていた。それはそれは良い内容で、返事を書いて枕元に忍ばせてから、これを書いている。子どもはしばらく持てない、と思う。仕事でたくさん接しているからとかそういう問題ではなく、僕はまだ人生を生きるセルフイメージを捨てきれていないのだ。こんなにも生活をしているくせに。意識して貯金しているとか、めちゃくちゃ気持ち悪い。
 
 
▼結局のところ、16の頃に書き始めてからこれまでずっとそれは異化作業が目的の行為でしかなかったのだろう。そうであるならば、その必要がなくなったはずの現在地において、書き続けることで何が書けるようになるのかは、自分自身でも見てみたいと少し思うのだった。なんか書く場所ないのかな。