2021年12月16日の生活

▼数日前に身体を痛めてしまい、何十年ぶりかに整形外科といふものに行った。いかにもクリニックというような面構えのそこに1歩足を踏み入れると、特有の時間が流れていて、僕はそれを好ましく思ったのだった。待合室の会話をBGMに、初診療の問診票を記入する。退役軍人の集まりみたいだ、と思ったのは海外ドラマの見過ぎかもしれない。ききすぎの暖房の風を避けるよう壁沿いを移動しながら、飾られた黄色い花とカレンダーとの間に立った。席は空いていたが、痛めた身体のせいで座れないのだった。
 
▼ベテランの先生に呼ばれて診察室に入る。てきぱきと診察が進み、レントゲン検査。異常は見られず、処方箋と外用薬、患部を保護するグッズを受け取って終了だった。病院嫌いの自分がわざわざ這うようにしてまで訪れたのだから、それはもう並々ならぬ痛みであるからして、いろいろと聞いてほしい思いはあったのだが、先生は退役軍人たちの相手で忙しいのである。この場においては侵入者のような若人とは、必要最低限のやり取りで終了。さっぱりしてていいじゃないか、と脳内のわたし。これに不満を覚えるようになったら、さらに1段老いたということになるのかもしれない。まあ一見さんはかような扱いを受けて然るべき存在なのだ。それでも、とにかく良い印象だけが残った。お礼をあちこちに伝えてクリニックを後にした。  
 
▼以降、杖をついて生活をしている。生まれてこの方、骨折の経験もないので初杖である。杖をついて分かるのは、世の中の普通は多分にスピードが速いということ。恐怖を感じる場面が日になんどもあるのだった。都市の設計を思うとき、高齢者が多い地方は逆にそこに最適化するための体力がもはやないのではないかと、衰退がそこかしこで跋扈する、波に飲まれて10年になる故郷を見たときに感じたのだが(最近の話だ。このことはまたいずれ書く)案外、人と街との間のチューニングというものは、その街の持つテンポに対して生じるものなのかもしれない。住みやすさを規定するものは、買い物や交通の便といった生活のしやすさと必ずしもイコールではなくて、ある種の「脅かされなさ」なのではないかと、そう最近は考えているのであった。