2021年12月18日の生活

▼昨日の続きで、『ライティングの哲学』の話。

あまり普段ものを考えずに生きている人、という言い方はよくないかもしれないけれど、 じゃあ「普段ものを考えて生きている」 ってどういうことかというと、具体性と抽象性の あいだを常に行ったり来たりできているってことなんです。われわれ学者みたいな人間は、 日常で見たことなどに対して、メタレベルの価値判断を常に下して、メタレベルとオブジェクトレベルを行ったり来たりしながら生活している。頭のなかで言語化が常時起こって いるから、なにか出しなさいと言われたらそれをそのままワープロにインプットすればい いので、出るんですよね。それをやっていない人は、まず抽象的なメタレベルの思考をやっていない。具体的な経験すら言語化されていない。でも具体的な経験自体はしているから、それを言語化に繋ぐのは第一歩だと思うし、抽象的なことまでは考えていないけれど感情とか価値については多少考えているから、それを言語化して具体レベルと繋ぐことからかな、と思います。

これを、人生と生活と読み替えることもできるだろう。メタが人生で具体が生活だ。ここ数年、生活が侵食してきて人生がなりを潜めていると感じていたのはそういうことなのだ。
 

精神分析はリアルの 他人と二人でやるということが根本的に重要で、ぼくの有限性の話とか、ツールというも の友人と繋げて考える発想って、根本には全て精神分析があります。精神分析は他者がいるということが大事で、それに対してぼくはツールとかノートとか筆記用具を準他者 と呼んでいるんですが、これは「偽精神分析」なんですよ。ぼくが最近しているライフハック系の話は偽精神分析で、そのことにはいろいろと思うところがあるんですが、偽精神分析だとしても意味はあると思っている。むしろ、オーセンティックな精神分析がいうところの本物の他者というものを、準他者的なものに回収できないか、そう考えたいくらいなんですよね。人間と人工知能みたいな話ですが、人工知能的なもののほうを第一とする方向で考えたい。

これを子どもたちの指導に活かそうとしているのが最近の僕だ。授業を磨くことよりも(もちろんそれは大前提なのだが)、彼らが自発的に学びを継続できる仕掛けや考え方を提供することに興味が移っている。
 
 
▼怪我の方はだいぶよくなってきたのだが、相変わらず痛み止めも補助具も手放せない感じではある。良くなったらやりたいことの1つ目は部屋の片付けである。我が家は家事の分担をしていないので、できる人ができるとき・気になるときにすすめていくことにしている(互いへの感謝は忘れない、は暗黙のルールだ)。だが、片付けスイッチが入る閾値が低いのは僕の方なので、基本的には僕がほぼ一手に担っている状況だ。それ自体は別になんの問題もないのだが、こうして動けなくなってしまうと、生活が荒れてしまう。ただし、荒れていると感じているのは僕だけで、恋人はそうは感じていない。こちらからお願いはしない。自分がまだいいでしょ、と思っているときに「片付けて」と頼まれたら、まるで怠惰だと指摘されているように感じるのではないか、と思うからだ。相手だって僕がまだいいかな…と思っているときに突然整理整頓を始めることがある。だからやはり「お願い事」は慎重に。世帯はともにしても、基本は独立独歩の人間なのである。この微妙な線を保つことが、僕ら2人の社会においてはとても大切なのだと思っている。でも、この辺の判断が加齢とともに鈍っていくのではないだろうか…という危惧が随分前からあるのだった。僕のほうが年齢は上だ。とすれば、その辺りが分からなくなり、気づけなくなるのは僕からだろう。そのとき、それらを受け入れられるのだろうか。お互いに。