「」のない生活

8月に入ってからやや本気のトーンで転職のことを考えている。職務内容等に不満はたくさんあれど、そのどれもが直接的な要因ではなく、むしろもっと自分のことに時間を使いたいからというその気持ちが一番大きなところなのだった。「働き盛り」は「生き盛り」でもある。言うなれば、満足に気持ちと身体が動く最後の年月(としつき)に、何をすべきかということ。でもそれはどこかで必ず「生活」と結びついてしまう。そのことが、決断やそれにいたるプロセスに若干の影を落としていく。前向きな行動ではあるはずなのだが、どことなく憂鬱な気持ちになってしまうのはそのせいだ。

さてそんな8月のある暑い日、久しぶりに家具屋に赴いた。家具屋の客は、かっこの外れた生活のことを考えている雰囲気があって、なんとなく「イイ」と感じる。「このソファを置くには部屋の広さが不十分だ」とか、「カーテンの色はアースカラーが譲れない」だとかそういう話をしながら諸々を見て回った自分も、きっとそういう「イイ」客の1人であったと思う。家具屋に赴き、かっこのない生活に没入することで、「生活」のあれやこれやを一度自分から追い出してしまう。そういう時間の使い方はとても大切だ。
 
その日は出かけるという予定だけが決まっていて、具体的に何をするということは決めていなかった。プリンを食べたいだのパフェを食べたいだのいう恋人に、常日頃からリサーチをしておいた店をいくつか提案をしつつ乗り気じゃなさそうなのでどうしたもんかなと思っていたところに、そういえば新しい枕が欲しいと言っていたのを思い出し、買いに行こうぜと誘い出したのがきっかけだった。コロナ禍になった直後くらいまでは、自分は長いこと「お家サイコー!」でずっと人生を過ごしてきたから、出かける理由がないのならずっとインドアで構わないし何ならその方がいいくらいに考えていた。でも、不思議なことに歳を重ねてきたら、ただ家にいるのもしんどくなってくるのだ。それは時間を過ごす方法がないということではなくて(聞きたい音楽もpodcastも見たい映画やドラマも、読みたい本だって本当に山のようにあって、仮に1日が48時間あったとしても労働に精を出す時間なんてこれっぽちもないほどなのだから!)、何もせず部屋で過ごしきってしまったあとの「今日の命の使い方はこれで良かったのだろうか」感に耐えられなくなっているということが大きい。まさか自分が理由を作ってまで外に出ようとする人間になるとは思わなかった。中年には中年の焦燥感があるのだ。
 
というわけで中年の危機の入り口に立つような僕も、家具屋にいたその時間は、なにかポジティブなバイブスに囲まれて(一種"当てられていた"ようなことだったのかもしれない)、陽の情動を醸し出していたのであった。思えば、家具屋のような空間にいて悲観的なトーンのまま過ごすことは難しいのかもしれない。(至る事情にもよるが)新居を探す活動なども、引越しに伴うもろもろのストレスこそあれど前向きな動きでワクワクすることが多い。お値段以上、とその家具屋は言ったが、生活や暮らしの様々な場面にある、かっこから離れられる瞬間というのものには、経済的還元以上のものが宿っているのかもしれない。