ということは音痴な言葉という概念もあるのだろうか

我が家にはスマートスピーカーとしてgoogle home miniがいる。2つ前の部屋に住んでいたときに、マンションの都合でネット回線を全戸に引き直しますみたいな作業があり、その際にキャンペーンとしてもらったものだ。なんだかんだ長い付き合いになる。とはいえ、未だかつて家にスマート家電があったわけでもなく、集合住宅ゆえ音楽などもイヤホンで聴いているわけで、「スマート」においても「スピーカー」においてもほとんど活躍の場面がない。最初こそ「面白い話をして」とかいうパワハラまがいのお願いを連日したり、音声ニュースを読み聞かせてもらったりしていたが、だんだん飽きてしまい、今ではすっかり「話しかけたら作動してくれる目覚まし時計」と化している。(あとたまに話しかけてないのに喋ってる)
 
そんなおしゃべり目覚まし時計にいつもどおり同居人が話しかけていたときのこと。「ねえ、Google」とここまでは良かったのだが、次の瞬間、思わず耳を疑った。「アシタロ(↑)ク(↓)ジニオコシテ(→→→→→→)」とAI特有のイントネーションで話しかけている。なんだこいつ〜?おいおいなんで寄せてってんの?電脳がハックでもされとんのかいなと思って寝室に向かったら、当人は「何でこうなったかわからない」みたいなことを言いながらケラケラ笑っていた。意味がわからなすぎて僕も笑ってしまった。こうして世界は平和になりました。fin... まあそれはともかくとして、我々がふだん話している「ふつう」とされるイントネーションは、一体何によって身につけたものなのだろうということをぼんやりと考えたのだった。
 
もちろんそれは周囲が使う言葉によるところが最も大きいだろう。単純にその接触頻度だけを考えても影響力は甚大だ。たしかに僕も地元にいたティーンの頃は、当たり前にその土地の言葉を使っていた。大学時代は、アルバイト先の上司が関西の人だったこともあり、普段遣いの言葉の端々に上司のイントネーションが侵食してきてしまい、自分でも気持ちの悪い言葉の放ち方をしていた記憶がある。就職とともに上京した直後から、意識したわけではないのにあのキメライントネーションも含めて方言がぱたりと消えた。(こうして音を追いかけるだけでも環境に順応している感がある。)その後今に至るまで音の連なりは安定したように思える。就職後も身近に関西出身の人がいるのだが、今回はイントネーションが侵食される様子もないので、学生時代は接する人間の絶対量が少なかったからなのかなとか、単に年を取ることからくる柔軟性のなさがこういうところにも現れているのかな…などど考えている。
 
国立国語研究所などの情報を拾ってみると、アクセントの違いなどの興味深い情報が得られた。曰く、日常の音の法則に東西の違いがあるとのことだったから、多少のキメラ感は出るにしても東(西)の人が西(東)に住んだ場合でも「完全にその法則が入れ替わる」ということは起こりづらいのかもしれない。あるいは僕が思っている以上にみんな実家に帰りまくってて、その都度ピッチを調整しているのかもしれない。
 
もう一つ、AIにAIのように話しかけているあの奇妙な光景をもとに思い出したのは、大人が小さい子供に話しかけるときに使う「赤ちゃん言葉」のことだった。本当に子供の言葉使いに合わせて大人があのように話しているのか、あるいは大人がそう話すから子供がそう話すのか、はたまたそもそもあの言葉使いで話している幼子って実はあまりいない?いろいろ考え出すと、誰の何にアジャストした言葉なのか、面白くなってくる。もちろん、大人の普段の会話よりも柔らかい雰囲気が出るから云々という「効果」はありそうだし、対人間のコミュニケーションのそれは理由がありそうな営みではある。ただし、同居人が展開していた「発音をAIに寄せていく人間と、人間に寄せていくAI」には合理的な理由が見当たらない。そう考えると、イントネーションのシンギュラリティ(とは)も実は水面下で進んでおり、そう遠くはない未来の話だと言えるのかもしれない。自分で書いていて意味がわからない。
 
僕らは言葉の「音程」についてどう学ぶのだろうか。言葉の運用(それは音も含めて)において、周囲の環境からどういった場合に影響を受けて、また受けないのかということは、こうして考えてみるとどうやら奥深いことなのかもしれない。数日前に短歌の本を読んだとき、意味論の部分よりも音韻の話のほうがずっと興味深く読めた。これは今までにあまりないことだった気がする。「見ること」をとても大切なものだと考えてきたこの十数年だったけれど、年をとると煮物が好きになるみたいなことと同じで少しずつ嗜好が変わっていくのかもしれない。でも、くるりの「ばらの花」が京都のイントネーションだ、みたいな話はずっと前からとても好きなのだった。ということは、実はずっと同じことを考えていて、その時々で前景化するものが違うという程度の話なのかもしれない。いずれにしても、聴くということと話すということは、実に大切なものなのだなと最近とみに(今更ながら)感じているのであった。