2022年9月12日の生活

▼睡眠不足が尾を引いていたこともあり、今日はおうちで過ごそうと思っていたのだけれども、洗濯を干すために出たベランダであまりにも爽やかな風を浴びてしまったので、のこのこと連れ出されてしまった。
 
多摩川沿いまで電車で揺られていく。平日の昼間は人が少なくて良い。日差しを遮るものがほとんどない河川敷を歩いていく。野球ができるグラウンド。レフトの位置に立ってみる。懐かしい視界だ。守備練習のうち、とくにフライを苦手にしていたのを思い出す。目測を上手に合わせられなかったな。コツを少し掴んだような気がしたくらいに辞めてしまったんだっけな。そんなことを思い出しながら少しだけ打球を追うイメージをふくらませる。怪我をする未来が描けているぶん、怪我はまだ幾分遠いかな、などと思った。
 
▼取水装置的なものの周囲で発生している白波を見ながら、祖父母の家に向かうために乗った船から見たそれを思い出していた。震災以降、海に近寄れなくなっていた僕も、長い年月をかけてそれを克服しつつある。流水が作るその泡とともに鳴り響く轟音を聞く。主を失った祖父母の家にはもう訪れることはないのだろう。考えてもみれば、幼少期に過ごしたことのある親族の家で残っているのは(自分の生家も含めて)そこだけになる。それはとても不思議な感じがする。生きている人たちの家が全部なくなってしまったのに、今この世にいない人の家だけが残っているのだから。というわけで、河川敷に行ったら、シャムキャッツの大名曲『Coyote』のMVとか思い出すんかなと思っていたのだけれども、気がついたらぜんぜん違うところに着地していた。

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▼夕方、恋人を迎えに駅まで。待っている間に、昼間の散歩のことを思い返していた。数日前に昔の日記を読んだことと、今日川のそばまで赴いたことは確かに繋がっていたと分かって少し笑ってしまう。きっと、元気でいるね。
 
▼新譜。Ari Lennox『age/sex/location』、Sampa the Great『As Above, So Below』、Charles Stepney『Step On Step』を聴いた。瀬戸賢一『日本語のレトリック』(岩波ジュニア新書)を読み終えた。日常の言語活動の中に様々にレトリックが入り込んでいることをあらためて。そこに意識が向いていたほうが、自分が考えている(はずの)ことへの解像度が高くなりそうに思う。若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』(文春文庫)を145ページまで。折しも洗濯機に広告配信みたいなニュースを知った後だったこともあって、刺激を受けまくっている。  

「先生、知ることは動揺を鎮めるね!」
「若林さん、学ぶことの意味はほとんどそれです」