2024年1月17日の生活

▼1月15日配信の『83 Lightning Catapult』で番組がいったん休止になるみたいな話をしていて悲しかった。でも急すぎて少し笑った。この番組のミーム(コーナーも好きだったのだが)の中でも「スポティ家」のくだりは好きなので、久しぶりに聞けて大変良かった。どうか番組が続いてほしい。

▼年末に体調を崩したときに暇だったのもあってラジオ、podcast周りの整理をして、新たに聞くものを増やすなどした。中でも『松岡茉優&伊藤沙莉「お互いさまっす」』これが大当たりだった。もともと好きな2人ではあったのだけれども、ますますその感情が高まるもので、聞いていて嬉しくなる。「おしゃべり」の良さを思い出させてくれる。

youtubeにもあった。
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▼永田希『再読こそが創造的な読書術である』(筑摩書房)を読んでいたら『侍女の物語』の話が出ていた。

「Nolite te bastardes carborundorum」という文字列をめぐるオブフレッドと「司令官」のエピソードは、異なる社会的ネットワークがひとつの文字列を介して接続されるという例だと言えるでしょう。それは「上級生に教わったジョークを、学生時代にラテン語で落書きをした」 という「司令官」の記憶を含む内的なネットワークと、「クローゼットで見つけた誰にも言えない文字列」という記憶を含むオブフレッドの内的なネットワークが出会い、すれ違う場面でもあります。そしてこのとき、オブフレッドは「前任の侍女」がどのような気持ちでこの文字列を記憶し、クローゼットに刻みつけたのかを理解します。(p.108)

伏線回収系の話、そこまで琴線に触れないのだけれども、この異なるネットワークのスパークを思わせてくれるコントや漫才があるよなと思った。大文字で「伏線回収」とされているものの何割かは「伏線」ではなく言うなればネットワークの「複線」で、その相互作用で小宇宙があちこちにできている、みたいなものが好むところなのだった。

 「司令官」はオブフレッドにとっての文字列の意味を理解することができません。「司令官」とは別の意味で、「前任の侍女」もまたオブフレッドにとっての文字列の意味を理解できません。「前任の侍女」はもうそこにはいないからです。したがってオブフレッドが理解した「意味」は彼女の勝手な思い込みにすぎないかもしれません。誰にもその正しさを保証してもらうことができないのですから。
 オブフレッドと同様に、読者もまた「答え合わせ」することができません。「侍女の物語」という作品を構成している文字列には、たしかにはっきりとした作者がいます。作者に意図を尋ねれば、ある意味で「正解」を得ることはできるかもしれません。しかし、わさわざ作品の末尾で「オブフレッドの実在すらもあやふやになっている」と書いているの ですから、作者はおそらく「語り手」が曖昧でもメッセージが伝わることを描きたかった のだと考えられます。
 あるいは、メッセージの伝わりにくさをこそ描きたかったのかもしれません。その場合、作者に「正解」を尋ねても、単純な仕方では答えてくれないでしょう。「伝わりにくさ」 と、「伝わりにくさを超えてメッセージが伝わること」という矛盾する現象がそこには描かれているからです。(p.110-111)

「分からない」のに「分からない」まま「分かって」笑ってしまう瞬間が好きだ。内的ネットワークの相互作用で「分かる」の何かが引きずり出されているのだろう。そしてここまで書いてくると、やはり、結局ずっと自分の中で通底しているテーマが「ネガティブ・ケイパビリティ」なのだと思わされる。あるいは、易きに流れたくないという意地のようなもの。

2024年1月16日の生活

▼風の強い一日だった。11月くらいからずっと体調を崩していて、ついに年末年始に倒れるところまで行ってしまっていたのだけれども、年明けから10日も経って少しずつ落ちいてきている。それにしても、ゆっくりと、でも着実に衰え始めているのを感じる。ワンダーへの跳躍の減退は、リアルな死への恐怖を緩和させるためなのかもしれない。

▼「つんく♂みたいなライトグレーの襟立てコートの男性だ」と頭に浮かんだのは帰りの電車で、「つんく♂みたいな」がコートにかかるのか男性にかかるのかという疑問もさることながら、果たしてその印象の源泉は、この男性の容姿かはたまたコート由来のものなのか。そんなことを考えながら、およそ人生で初めてつんく♂の宣材写真を検索した。全然似ていなかった。そしてライトグレーのコートの既視感は、どう考えても冬のソナタペ・ヨンジュンだった。僕はここ20年くらいに新しく学んだことなんて何もないのではないかという気持ちになった。帰りの電車ではTOEICの勉強をしようと思っていたのに。
 
▼マーク・ウォーターズ『ミーン・ガールズ』を見た。なんで見たんだ?リンジー・ローハン、懐かしいなと思った。

2024年1月15日の生活

▼「馬だな」と思った。「馬のたてがみが風になびいているな」と。でもよく見たらティーンエイジャーの天然と思われるキューティクルと日の光とのコレボレーションのそれであった。そうか、これが「ウマ娘」とかいうやつか…。そこからおよそ水分がすべて蒸発しきってしまったとしか思えない自分の髪の毛を思い、「少々傷んでいるな、トリートメントはしているか」までシームレスに出てきたところを見るに、僕はここ20年くらいに新しく学んだことなんて何もないのではないかという気持ちになった。
 
▼自分の世界に対する自らの影響力を高く見積もりすぎるのは人間の性であるが(その極地が「雨男・雨女」で、僕はそれを慎重に避けたいと思っている)、近所のスーパーがもち麦ごはんを突然たくさん仕入れたのはこの数週間の自分の購買行動のせいだろうと強く感じた瞬間があったことにショックを受けてしまった。このもち麦ショックと地続きの場所に、世の中の醜悪さがあるはずだ。遠慮して生きていきたい。