アリ・アスター『ミッドサマー』(2019)

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喪失からの再生(のようなもの)、依存と自立とその先

 
いっこうに書き上がる気がしないが、見てから1ヶ月近く立つので、覚書としてひとまず記しておく。メモの集積。
 
 

主人公≒監督≒観客

 アリ・アスター監督の「主人公も観客も自分が見たものと格闘しなければならない」*1という言葉からわかるように、この映画の主人公であるダニーは監督の投影であり、と同時に観客自身の目としても機能していく。だから、ダニーのボーイフレンドであるクリスチャンはとにかくひどいやつとしか見えない(ように描かれている)。だが一歩引いた視点で見たときには、それが「正しいかどうか」はまた別にして彼側にも「言い分」があるようにも見える。そしてそれはジェンダーをはじめとした個人の属性によっても捉え方が変わるかもしれない。ここが映像表現の一つの妙だろう。シンパシーやエンパシーを挟み込むためのではなく、自身のアイデンティティに引き寄せて解釈するための余地がある作品は、とてもよい作品であるという判断基準が僕にはあるが、序盤の段階でその部分はクリアされた。人はそれぞれの世界でしか生きられない。そんな当たり前のことを握り合い、また鑑賞後にも握り直すために必要十分なホルガの村へたどり着くまでの導入であった。

 さて、クリスチャンの行く末の暗示は劇中様々に忍ばされて(あるいは明示されて)いるが、僕のフェイバリットはダニーの誕生日を忘れたクリスチャンの遅れてきたサプライズプレゼントであるケーキに火が灯らない場面だ。二人の間に関係性の火がつくことはないということ。物理的に火をつけるのはクリスチャンではない(火を放たれるのは彼)ということ。そして誕生を祝うハッピーバースデーを歌い終えたあとにfuckと言い放つこと。それらが幾重にも彼の物語を予言する。またその予言と背後で泣く赤ん坊とあやす女たちとの組み合わせで、その後のクリスチャンの「役割」もが示される。つまり、子を宿す行為を達成するまでは焼かれることはないということである。コミカルに描かれていて笑ってしまった場面ではあるのだが、最後まで心に引っかかっており、一つ一つ彼の身に降りかかるたびに哀れだなという思いと併せて妙なおかしさがこみ上げてしまった。
 
 

家族の喪失からの再生

 死んだ妹の顔が村に向かう途中の小屋の中であらわれるなどして、中盤までにはかなり印象的に挿入される「家族を失うシーン」だが、その後音響などを駆使してうっすらとした不快感が増していくのとは対象的に、家族の死に関するホラー的演出は徐々になりを潜め、後半では完全に背景の中に溶け込んでいる。これは時間が立つとともに前景化されるダニーの心の傷が、家族の死という過去の場面から「いまここ」の関係性にシフトしていることの現れである。そしてまたホルガの村の擬似的な家族コミュニティが確実に彼女の傷を癒やしていっている様をも表している。しかし、ダニーが幻覚で見る「自身に草がまとわりつく映像」であったり、「花が彼女の頭上で息づく様子」、さらには女王となりシーンが進むたびにまとう「花の数が増える」様と、妹の死が背景や周囲の自然と一体化していることとを併せて考えると、むしろ彼女の傷はいまだに色濃く残っていることがわかる。ホルガの村が提供している家族はあくまで擬似的なものの域を出るものではなく、いわば「機能」である。監督は誰であれ、家族からは逃れることができない旨の発言をしているが、それは血の呪いとでも言うべきものかもしれない。忌むべき家族がいる・いないにかかわらず、人間が生まれたときから社会的な生き物である以上、その最小単位でありかつ初めて接することになる家族というものは、ある意味では呪いなのだ。僕はずっとそう考えている。
 物語の最後で、ダニーの不安の一端を担っていた彼の友人たちとともにクリスチャンを焼き払うことで、観客や本人はカタルシスを得てしまう(事実、僕は少し涙ぐみながら良かったねとひとりごち、彼女の笑顔を見て笑ってしまった)が、共依存の鎖は対象を変えて残り続ける。ホルガのコミュニティの特異性がそれをひた隠しにするかもしれないが、クリスチャンを失ったことでダニーは確実に家族≒ホルガへの依存度を高くしていくだろう。これは治療・治癒のプロセスの危うさをも示している。我々も、自身が何かから前を向こうとしたとき、あるいは誰かを立ち直らせようとしたときに、この映画が示している罠に陥っていないと断言できるだろうか?
 
 

映像の反転が意味するもの

 冒頭から不快感が漂う映像と音響表現だが、個人的な最初のピークはダニーたち一行がスウェーデンの森へ向かう際に画面が反転するシーンだった。ゆっくりと180度回転する映像を身体が拒んでいるその間、これはなんの引用なのだろうと考えていたが、これはパク・ジャヌク『親切なクムジャさん』(2015)からということだった*2。さて、この映像の反転は、鑑賞者に対してここからは現実の価値観が倒錯していくというメッセージを発していた。いつの間にそれが体に浸透したのかわからないが、序盤の儀式におけるショッキングなシーンでは、イギリスからの2人がその異常性を大声で喚き散らしていたが、正直この2人のほうがあの場においてははっきりと異質であった。また、ドラッグで酩酊状態に追い込まれたクリスチャンがコミューンの少女と体を交わすシーンにおいても、単純なその場の男女比だけ考えても、現実の性産業、あるいは性犯罪の多くの場面から考えたときに反転しているといえるだろう。ひたかくしにされる現実のおぞましさの僅かな(本当に僅かだ!)一端を、映像の気色悪さから男性は少しでも感じるだろうか。あるいはその気色の悪さの出処に気づくだろうか。あの場面はジェンダーによっても解釈や感想が分かれる場面だろう。

 そして、映像の反転は観客をその世界がファンタジーであるということへも誘導していた。たしかに、ダニーは精神的に不安定で、薬物によるトリップ状態でもあった。ホルガの村では睡眠薬を飲んでは悪夢を見続けた。果たして、この物語のどこまでが真実で、どこからが虚構なのか。しかしそれがどうであれそのどれもがダニーの世界にとってはほんとうであり、観客にとってもそれは同様だ。それは先に述べたようにこの物語がダニーの目を通したものであるということからもわかる。ファンタジーでさえも「ほんとう」である。僕はこの作品をクリスチャンの視点、ホルガの村の住人の視点、そして一行を地獄へと招いたハーメルンの笛吹き男・ペレの視点による「ほんとう」で見てみたいとも思うのだった。(それは何度も見返すことである程度は可能かもしれない)
 
 

共依存、忍び寄る同調圧力

 この映画はセラピー的な要素があることは事実だが、同時にダニーの依存の経過をたどる物語でもある。その依存先がクリスチャンから疑似家族である共同体へと移行していく。ホルガの村は、その排他性も含めて依存性を高めるにはもってこいの構造を持っている。まさにカルト、である。例えばそれまで声を押し殺して泣いていたダニーが初めて感情をむき出しにして泣きわめくシーンでの感情への異常なまでのコミットメントは、カルトや洗脳活動の基本だ。一方で、この共同体について考えてみると、これはこの国に蔓延する同調圧力のアナロジーにも見えてくる。このコミューンが見せる他者への同調の高まりのピークは何度かあるが、とくに印象的なのはこのダニーのシーンとラストシーンである。感情への同期は、癒される側だけだなく周囲の同調者自身についても「このままで大丈夫」という感覚を生じさせる。そう、同調は安心をもたらすのだ。だが、あなたの感情に寄り添い共感を示すものがあなたを真に生かすわけではないのと同じように、この映画で描かれている同調を示すことで得られるそれは紛うことなき錯覚である。それでもそのかりそめの安心と癒やしを得るためには、同調を演じあるいは内面化し続けるしかない。あのコミューンの息苦しさは、そのまま現代の社会にも当てはまるだろう。まがいものの承認は、それ自体がまがいものであるがゆえに移ろいやすく、それに本質的には気がついている欲求者は、その承認を欲し続ける。そのことと同じだ。

 そしてその同調性は、場合によってはソーシャルコミュニティというよりも、「家族」という場において、より濃度を増すことがあるのかもしれない。アリ・アスターは前作『へレディタリー』と今作の共通点として家族をめぐる物語であることが挙げられる点について「自分に安寧をくれる場所化、苦痛を与える場所化。人によって存在意義は違うでしょうが、どちらにせよ家族からは決して逃れられない」と述べている*3。学校や会社など、同調圧力を求められる場としてやり場に上がるものは多々あるが、実は家族の場においてもそれは存在する。そのことが可視化されるようになって久しい昨今では、きっかけはなんであれ、ダニーの依存が、妹(双極性障害を患っていた)、クリスチャン、そしてペレやホルガのコミューンと「個人への依存」と「コミュニティへの依存」が複雑に絡み合いながら変遷していく様に同時に同調圧力の影をみることは、難しい話ではないだろう。実生活において、実人生において、自立した人間でありたければ、そうした圧力や依存の構造にどこで気づき、自覚的になれるかということがまず大切になる。選ばされている世の中において、その重要性は増すばかりだろう。ちなみに、コミューンから立候補した青年が焼かれるときに声を上げるのは、共同体幻想に絡め取られた人間は「その時」にならなければ自己の愚かさに気づかないことの現れのように見えて、非常に哀れなものだなと思った。その叫び声に同調するように小屋の外では村人たちが大声をあげるわけだが、そこではダニーも最後の涙を流し声を上げている。もはやコミューンが寄せる感情の波は、小屋の中の青年へのものなのかダニーへのものなのかも判別がつかなくなっており、その異常なまでの高揚(そしてそれは形式めいている)にひたすら気味の悪い印象を抱いた。と同時に、ダニーが享受した癒やしも十分に理解でき、どちらかといえば僕はそちらに気持ちが寄ってしまっていたから、心のなかに湧き上がってきたものはこれまで経験したことのないものであった。
 
 

コミュニティに注がれる血

 与太話ついでに最後に電波を1つ。あれだけ閉じたコミュニティであることが描かれながらも、自分たちと異なる血によって生まれた存在を神聖なものとして祭り上げたり、女王の座に部外者であるダニーが着いたり(コミュニティにて有用であると解釈された可能性はあるが)と物語内に気になる点がいくつかある。あの異種交配の産物は、「生まれながらにして」あの姿なのだろうか?部外者の血が入ったからといって、ハンデを背負った状態で生が宿るわけではない。異形の姿へとすることで「自分たちとは異なる領域まで手が届く存在」だとするのであれば、それを意図的に形作るためにはあそこで描かれた以外の方法があったとしても不思議ではない。ディレクターズ・カット版も公開されるということだが、謎が深まるのか、それとも明示されるものが増えるのか、楽しみである。僕がこの映画を見ようと思い立った理由は、ファム・ファタールによる自己の破壊から自身が傷をどう癒やし、どう立ち直っていったのか、あるいは立ち直っていないのならこの先どういう意識でいればいいのかということのヒントがあるかもということだった。でもそんなことどうでもよくなるくらい、映画として刺激的であった。宣伝のしかたも上手だったんじゃないかな。昨今の情勢がなければ(あっても満員だったが)更にヒットしていたかもしれないなと思うとその点だけがつくづく残念だ。