2018 BEST MUSIC 10-1

10. Joey Dosik / Inside Voice


vulfpeckやmockyの後ろでも活躍中のシンガーソングライターのソロ作。オーセンティックなブルー・アイド・ソウル。とても気持ちの良い夜が過ごせる。coco.oとのコラボ曲はスイートでキュート。安心して聞ける作品だ。
 
 

9. カネコアヤノ / 祝祭


時折チャットモンチーフォロワーのような音を鳴らしながらその枠におさまりきらない匂いをぷんぷんさせていたカネコアヤノ、今作で作品の質としては完全にブレイクスルーである。この作品だけに触れたら先達の影は全くといっていいほど感じない。それほどに、前作からの跳躍は凄まじい。オープナー「Home Alone」の歌唱から全編通して自身のスタイルへの確信が漂う。そしてその少年と女性の間を行き来する声で紡がれる生活を肯定する眼差しは、人生を降りて生活を選ぶことに戸惑っていた僕の背中をそっと押してくれた。部屋に差し込む太陽の光を愛しく思える市井の人々に送るサウンドトラック。すべてのことに理由がほしいと歌う「アーケード」には僕の20代が詰まっている。日本のコートニー・バーネットに最も近い場所にいるのは彼女かもしれない。2019年の4月にライヴで見た彼女の佇まいには、その感慨が正しいものであったと示す何かが確かに宿っていた。
 
 

8. cero / POLY LIFE MULTI SOUL


前作まででその語り部的意匠をまとった歌詞も、レプリカを標榜しながらひたひたとブラックミュージックへ接近したそのサウンドも一定の到達点まで来てしまっていて(それがポピュラリティを得たことが、今作をオリコンデイリーチャートNo.1に押し上げた要因の1つだろう)、どうするんだろうと思っていたら、脱構築的なやり方でダンスミュージックを再生産するなんて…!そしてその最後を飾るのが四つ打ちの表題曲で、ある意味でオーソドックスなリズムパターンであるにも関わらずとても新鮮に響くというマジック。ストーリーテリングが後退した言葉たちは過不足なくそのリズムの上に乗り、大洪水後の都市にかわわかれ、かれはだれ、わかれはだれと問いかける。ceroを聴くと、日本の音楽の可能性をひしひしと感じる。今作もまた、間違いない作品だ。
 
 

7. butaji / 告白


パーソナルなことを紡ぎ、ヘッドホンやイヤホンで自閉した個に寄り添うこと、そういうものを積み重ねた先にどうしようもないほどの社会性が見えてくる。かつて別物として想起され、世界が拡大していくことが期待されたオンラインの繋がりは、オフラインとの境目を融解させ、狭いコミュニティの拡張へと舵を切ってしまった。その後の惨状には目を覆わんばかりだ。単純化された感情は先鋭化し、否定でしか肯定できない心のありようがそこかしこに生み出されている。だが仮に社会がそれを前提に進んでいくというのならば、僕らには新たな社会性の獲得というものが目指されるべきだ。わかり合い、あるいはわかり合ったふりをしながら生きていくことを前提とした関わりから、わかり合えない同士がどう話し、どう互いを見合うべきかというコミュニケーションのあり方へ。
見る、ということには知性が必要だ。アウティング事件をインスピレーションに描かれた「秘匿」、ドローンが空撮した人がかつてそこにいた、を想起させるMVが印象的な「EYES」、これらはすべて見ることを媒介とした知の産物だ。そう、ここには生に根ざした知性がある。
そして、優れたポップミュージックには優れた歌い出しがある。「2階建てのある暮らしの中で…」(「花」)僕はここに言いようのないあたたかみと感動を覚えた。慈愛と寂寥と見ることから逃げない強さと。都市と個人に必要なあらゆるものが、butajiの告白には宿っている。この年のssw作品のうち最も優れたもののうちの1つだろう。
 
 

6. 折坂悠太 / 平成


この眼光に浪曲のような節回し、そして平成という表題。果たしてここで歌われているものの正体が何であるかを掴まんと意気込めど、するりするりと逃げていく軽やかさ。音楽の魔法!豊かさと音数は比例しないのだ。言葉が空間を形作り、音色がそこに装飾を加えていく。意味なんて、どうでもいいじゃないか。 
それでも表題曲で「平成、つかれてた それはとても どこにも行けず 止まれずに」と歌われるとはっとする。この30年、自分なりに走ってはみたものの、結局はどこにも行けなかったなと。時代そのものも結局はどこへたどり着いたのかあるいは着いていないのか。続く「揺れる」で歌われる「そちらは揺れただろうか」ああ、これは意識的な配置だ…。でもそんなことも結局は芳醇な音たちがほどいていってしまう。
インタールードを挟んだ「さびしさ」でまた我に返る。平成はさびしさとの付き合い方を身につけた人とそうでない人が分かれた時代だったのかななんて考える。ここで優しく奏でられるさびしさは、その素晴らしさを理解しているもののそれだ。作家の仕掛けた罠にまんまとかかってしまったと思う。心地よい罠に。
「さびしさ」が「今日の日はさようなら」と結ばれたとあとに、終幕曲「光」ではねむれよと歌われる。そこでpavementがかつてロックンロールの時代にお休みと言ったことを思い出す。ここにはそんなわかりやすい毒はないかもしれないけれど、「ありえないと そう思ったあの時 来るはずない そう思ったこの街で」がそこに並んでいることで、やっぱりここでパッケージされている平成は時代に通底していた空気をよく捉えているとしか思えないのであった。
それにしても「夜学」というモチーフは秀逸だ。混沌としているようでそれすらも秩序のうちにある。そこには正負のエネルギーが同居していて、猥雑に美しい。そういう時間の中にいられるのもあと何年だろうか。終わりはいつだってそっけなく、あっという間にやってくる。醜く粘る時代の悪習の影で、僕らの日常は日々終わりを迎えているのだ。
 
 

5. Sons Of Kemet / Your Queen Is A Reptile


UKジャズシーンの盛り上がりの中心人物、サックス奏者のシャバカ・ハッチングス率いるバンドのダンスミュージックと共振する1作。英国においてこのタイトルはまた…とトラックリストを見るとタイトルにはMy Queen is ...と冠されたアフリカン・ディアスポラの活動家たちの名前がずらり。出自であるカリブミュージックをそのサウンドに乗せながら、ブレグジットに揺れる英国で、多様性を祝福するサウンドが鳴ることの意味は大きいだろう。そしてそれは、この国においても。
 
 

4. 羊文学 / 若者たちへ


どんどんこの国が貧しくなっている。それは経済的な意味にとどまらず、文化的にも。もちろんその2つは相互に大きく関係しあっている。いまや若者の最大の問題は日々の生活のことであり、人生ではなくなってしまっている。こんな状況下で、文化のどれを選択するかが自らが属するトライブやアイデンティティを規定するんだなんてことが、彼らの関心事になんてなるはずもなく、ましてや音楽なんて―。
そんな2018にもブルーにこんがらがった若者たちがいるはずと音を鳴らすは製作当時大学生であった3人組、羊文学だ。彼らの1stフルアルバムであるここには、いつの時代も変わらないユースの姿がパッケージされている。
だが、全編を通して聴けば、その感傷も焦燥感も、青さや初期衝動のような安易な言葉で説明がつくものでないことが分かる。「僕ら今 夏のよう」夏は行ってしまうものだとするならば。「青春時代が終われば 私達生きてる意味がないわ」これがその只中にいる者の口から出てくる時代感覚。ウェブが加速させたメタの時代。そのことをまざまざと見せつけられているようでめまいがする。
一方で、僕が否定からのそれでもをレジュメしたのが確か彼らと同じくらいの年齢の頃だ。「エンディング」から始まり、ラストの「天気予報」では未来への希望が歌われる。その構造と、あのころの気持ちとの近似も思わずにはいられない。
だから、たしかにこれはエバーグリーンなユースの姿であるが、どうだろう、僕がその渦中に身を置いていた時分と寸分違わないものと言っても本当によいのだろうか。ここに、彼らの音楽の大きな魅力があるのだと思う。
青春時代の出口から、そのトンネルの手前までを見通した音楽。そしてそれがちゃんとバンドマジックの中で鳴らされていること。彼らを聴き続ける理由は、きっとまだまだあるだろう。
 
 

3. Blue Lab Beats / Xover


出るべくして出た、ロンドン発の新世代デュオ。古き良きロンドンの音楽と現代の音楽を調和させ、ジャズをイギリスのラップに再導入する事が、自らの役割であると標榜する若者たちが鳴らすのは、確かにその言葉に忠実な、jazzを用い、jazzを超えていくサウンド群。ロイル・カーナーあたりとやってほしい…!
 
 

2. 中村佳穂 / AINOU


彼女を評価する視点は様々に有ろうかと思う。シンガーとして、メロディメイカーとして、作詞家として、表現者として。そのどれにも説得力を与えてくれる、肝のすわりかたと佇まい。それらが渾然一体となって凄みとなって現れていながらも、肝心のリスナーには無邪気に音楽を奏でるパフォーマーとして映るところが特筆すべきところなのだろう。「みんなおんなじ辛いのよ」と始まる「忘れっぽい天使」と「行けいけ生きとしGOGO」な「そのいのち」がハイライト。意味がわかるのに聞いたことのない言葉たち。今年もっとも日本語に自由なポップミュージックだった。実に刺激的な音楽だ。
 
 

1. lyrical school / WORLD'S END


10代の頃の僕は当たり前に夢見がちな女の子で、誰かにこの日々を破壊してどこかへ連れ出して欲しがっていた。いつの日かそれは反転してプリンスになって誰かをどこかへ連れていきたいと思うようになっていたのだけれども。「つれてってよ」、よいタイトルだなと思ったのが始まりだった。「私の準備なんて待たずに どこかに連れてってよ」良いラインだなとも思った。それだけだったはずなんだけど。
気がつけば18年の夏はこの作品ばかりだった。躁状態の「夏休みのBaby」スチャとかせきが参加したチルでアンニュイなトラックが印象的な「常夏リターン」(ceroのSummer Soulが受け入れられるならこれが無視されるいわれはない!)の2曲だけで夏の気分はカバーできた。
秋になっても聴いていた。「オレンジ」は夕方のサウンドトラックだったし、続く「CALL ME TIGHT」は夢の中でおしゃれして待ち合わせするよりも大切なことを素晴らしいリレーで教えてくれた。ちょっと落ちてるときもそばで鳴ってくれる音楽だった。
冬も当然のように聴いた。「Play it cool」は単純にかっこ良かったし、「DANCE WITH YOU」「Hey!Adamski!」には自然と体が揺れてしまうことの気持ちよさが詰まっていた。「手を取り」「また何度だって」耳に届く音のどれもが気持ちよく、「何度だって」再生できた。
春になっても聴いている。再生するたびに流れる「連れてってよ」の冒頭はこう始まる。「明日急に世界が終わる可能性があるなら 逆に、何か映画みたいな出会いもあるかな」世界の終わりと映画みたいな出会いが等価のこの感じ!この感覚、ユースにとって真実では?そしてラストトラック「WORLD'S END」は「神様ごめんね」というリフレインとともに終わっていく。人は誰しも自分が自分の神様だ。僕は・私はこう生きていくと、諦念とともに決意したその瞬間へのレクイエム。それが「神様ごめんね」という言葉には宿っている。お仕着せの成長なんかじゃなくて、自らの選択で自らを変遷させていくこと。そこに、あの頃の自分に対してほんのちょっとの懺悔感があること。そのことの美しさ。
技術と笑顔に裏打ちされた日常の機微への確かな視座とそれを音楽に昇華できるチーム力。1枚を繰り返し、1曲を何度も聴くに連れ、どんどん彼女たちへの信頼感が高まっている。僕はきっとこのアルバムをこれからも聴くだろう。そう、世界が何度終わったとしても。